2019年3月の日記

2019年3月31日 さいたま新都心へ行ってきた戦利品

嫁の仕事の都合で彼女の職場に行くことが必要になって、それで嫁の職場の人たちに子供を連れてご挨拶をしてきました。
その帰りに、コクーンシティによっていろいろ買い物してきました。

ヴィレッジヴァンガードで、娘はおしりたんていのぬいぐるみを発見し購入。うわ、こんなぬいぐるみが3000円以上すんのか!?
高すぎる……。。。
嫁はKALDIで好きなお菓子を3000円分買いました(汗)
ぼくも、それなら負けてらんない、ってことでムービックスさいたまに行って、スパイダーマン: スパイダーバース、グリーンブック、ブラック・クランズマン、運び屋と4つの話題作の映画をパンフレット買いました。計3300円也。。。
うう、見る時間がないので、せめてパンフレットを読んで見たような気分に浸ります。。。

今月は、出費が多いです。。。
来月の給料日まで節約しないと不味いですね。。。

それにしても、パンフレットをちらっと眺めてすごいと思ったのは、グリーンブック、ブラック・クランズマン、運び屋と、話題作3つに映画評論家の町山智浩さんが記事を書いていたこと!
町山智浩さんの記事はすごく面白いので、あとでじっくり読むのが楽しみです。

2019年3月29日 ベンチャー企業の脱税

ベンチャー企業が脱税をして捕まったみたいな話を聞くと、なんか切なくなります。
なり上がろうとしてここまできて、そこで捨てたものは失ったものもあっただろうに、その捨ててきたものに最後は足を絡めとられて船が沈んでしまう。
このあたりは非常にドラマティックで、『グレート・ギャツビー』のジェイ・ギャツビーさんも、もしも、殺されたりしなければ、きっと結末はこのようになってしまっていたんだろうな、という気がしています。

そういえば、『死と税金より確かなものはない』って言葉がありますね。
映画『ジョー・ブラックをよろしく』でも使われていましたが、アメリカ合衆国の建国の父の一人でもあるベンジャミン・フランクリンが言った言葉です。

そういえば、ジョー・ブラックって、ブラック・ジョークのもじりですよね。今更気づきました(汗)

2019年3月26日 会社の表彰制度

一年くらい前から、会社が頑張った人を表彰する制度を導入しました。
ベンチャーで、最初、数人から始まりましたが、いまは30人近くいて、今後も人が増えていくでしょう。

ぼくは、昔の人が少なくて少人数で頑張っていたときが懐かしくて仕方がないです。
もちろん、給料も会社が大きくなって上がりましたが、人が増えた分、ルールも増えて、そこに生きづらさを感じています。

結局、ぼくは、あまりに増え過ぎた人のいる場所にいることが耐えられなくなり、自宅で仕事をすることを申し出ました。
ぼくは電車に乗ることに不安を覚え心臓がバクバクするようになりました。
大勢の中にいると、得体のしれない不安に襲われ、トイレに籠ったままでいたくなるようになりました。
トイレから出れなくなることはありませんでしたが、おそらく、会社で働くことを続けていれば、遅かれ早かれ、ぼくはトイレから出れなくなったはずです。
10年前の銀行のときと同じように。

せっかく、会社が大きくなったのに、ぼくの体は会社が大きくなるにつれて、どんどんやせ細っていきます。
それが不思議です。
会社がなくても生きていけるほど強くはない。でも、ぼくはぼく自身の未来をこの場所では描くことができないのです。
それが悲しいです。

でも、風が吹けば具合が悪くなる。
食事をすれば、情緒不安定になる。
どんどん身体は痩せ細る。
こんなぼくが、どうやって、組織という場所で活躍すればいいというのでしょうか。

どうして、ぼくはこんななんだろう。
幸せになりたい。家族のことを幸せにしたい。
最近は、毎日、そんなことを考えながら生きています。

きっと、それがぼくの戦うべき世界で、ぼくの描くべきことなのだ、という気がします。

2019年3月24日 ホントに弱いのはぼくの方だ

自宅の狭いアパートに2人子供がいて嫁がいて、小説を書くための環境づくりに苦戦しています。
まず、何よりも狭い。。。
2Kで4万円代の部屋なので贅沢は言えないのですが、それでも、やっぱり部屋が本でいっぱいなので子供たちの遊ぶスペースもありません。
ごめんよ、子供たち。。。
狭苦しさを感じているのはぼくだけではないはずです。

キッチンは本が詰まった段ボールで埋め尽くされ、子供が遊ぶようなスペースがないし、和室はまるまる一室ぼくの仕事場として使っています。(嫁もすごいストレスたまっているだろうなぁ……)
と、そんなことを考えると、ぼくは一人きりになれるスペースをもらっているだけ幸せな方なのかもしれません。まあ、自宅で仕事しているし、いちおう、お金は稼いでいるので多少は我慢して欲しいですが。。。
そして、問題は、その部屋を閉め切って一人きりの状態になったとき、「もっと私たちかまってよ」という嫁と子供たちの無言の抗議ようなものを感じ、それにビクビクしているぼくの心の豆腐並みの脆さなのでしょう。
なるべく、憎まれながら仕事をしたくないし、でも、小説は書きたいので、少しずつ家族の理解を得ながらやっていきたいと思います。

2019年3月23日 書きたいことが山ほど

書きたいことが山ほどありすぎて困っています。
それなのに時間がない。あるいは、花粉症で身体がダルくて頭がついてこない。
ずっと、自分のやりたいことと、自分のやれることのギャップのあまりの落差に苦しんできました。

ぼくは夢見る100均ライターみたいなものなんです。
安物で、それでも、心のなかに小さな火が燃え続けている。

最近思うことは、ホントはぼくには書きたいことなんて何もないんじゃないかってことです。
いや、厳密にいえばあるのかもしれないけれど、本当に書いてまで訴えたいことなんてないじゃないかって、そう思ってしまうんです。
実のところ、ぼくの本当の願いは、一生、煩わしい人付き合いなんてしないで、孤独に自分の好きな小説や漫画や映画を見て過ごせたらってことなんじゃないかと思います。
そうするためには、小説家という仕事が一番だれとも付き合わないで良さそうだから、ぼくはこの職業になることを目指したのではないか。

だとすれば、ぼくは、自分が書く主題なんてないことを素直に認めなくてはいけないかもしれません。
自分は空っぽであることを認めなくてはいけません。
そこから、本当にぼくが書くべきもの、ぼくの心の底から生じたものが書けるような気がしています。

本当のぼくは、自分の家族からすらも背を向けて、逃げ出して、物語の世界に籠っていたいのではないか。
いや、それはきっと後ろ向きな意味ではなく、本当に小説や漫画や映画が好きなのだと思います。
ほくは、本当に好きなのです。これが、ぼくの生き甲斐そのものなのです。
小説や漫画や映画が大好きなぼくが、本当のぼくなのです。
それに触れていないぼくは『ぼく』ではないとさえ思います。

そういえば、『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』ので村上春樹さんが書いていたことなのですが、村上さんは「アメリカの文学史のなかでもっともアメリカらしいと思える小説を3つ挙げよ」という設問に対して、高得点を取るだろう文学小説としてハーマン・メルヴィルの『白鯨』、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』、F・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の3作品を挙げていました。

そして、『白鯨』、『ライ麦畑でつかまえて』、『グレート・ギャツビー』の3つの小説を並べて比較をすると、そこには共通したベクトルのようなものを確認することができます。それは、それぞれの作品の主人公が

1、志が高貴
2、行動スタイルが喜劇的
3、結末は悲劇的

この3つの特徴を持っているということです。
また、それだけでなく、この3つの作品は、高貴さ・喜劇性・悲劇性が小説的にたっぷりと危ういまでに強調されています。
このような作劇をアメリカン・ドラマツルギーと呼ぶそうです。

ぼくは『白鯨』は未読なのですが、『ライ麦畑でつかまえて』と『グレート・ギャツビー』は好きな小説で、特に『ライ麦畑でつかまえて』は大好きです。
高貴さと喜劇性と悲劇性を兼ね備えたホールデン・コールフィールドには大学生のときに影響されまくりでした。

長くなりましたが、何が言いたいのかというと、ぼくには滑稽さ(喜劇性)や悲劇性はあっても肝心な高貴さがないなあ、と。
ホールデン・コールフィールドやジェイ・ギャツビーのような高貴さは、ぼくなんか、どう逆立ちしたって持つことなんかできない。
そんなぼくが凄い小説なんて書けるわけない。
でも、どうせ書くなら、良いものが書きたいと思います。
才能がないわけだけど、せめて、そういう志をもって書いていきたい。
まあ、もっていないものはひねりだしようがないのですが……。

それで、村上春樹さんの小説の主人公の高貴さって何だろう、って考えたときに、ぼくも自分の書くべき小説のヒントみたいなものが見つかったような気がしました。

書くべきこといついては、機会があったときに語らせてください。

2019年3月13日 失敗ばかりで辛い

ぼくは、正解を導き出せた試しがありません。
恥ずかしいことに、他人にする大抵のアドバイスが間違っていることが多いです。
だれかから言われたわけではありませんが、ぼくのアドバイスのほとんどが間違っていることが多いと自分で思います。
しかも、アドバイスをしている本人は、そのときに本気でそれが正しいと信じ込んでいるから始末が悪い。

間違ったアドバイスばかりしていると分かっているのなら、せめて聞き役に徹すればいいのに、と思います。
でも、なんか言ってしまうんですよね。そういう性分らしいです。

そんな間違ってばかりの暴走野郎の妻になってくれた妻にはいつも感謝しています。
彼女の言うことはいつも大体正しい。
間違っていることなんて、ほとんどないような気がします。

それは彼女だからなのか。
それとも、女性の大体は正しく、男の大体は間違っているのか。
とても興味深い問題ですが、いずれにせよ、もしそこに救いがあるのだとすれば、それは人と人とが繋がるのに人間的な正しさは関係がないのかもしれない、ということです。

ぼくは、何か問題があると、その問題を排除しがちです。
でも、排除ではなく、共存という選択肢もあるはずではないのかと最近は思っています。

食生活がそうでした。
糖質を取るとぼくは情緒不安定になる気があったので、食事から糖質をまるまるバッサリカットした時期がありました。
その結果、ぼくは動けなくなり、記憶力が悪くなり、日々、鬱のような症状になってしまい、ぼくの身体は仕事をやめる寸前までに追い詰められたのでした。

排除より共存という選択肢を入れてあげると物事は上手く運び始めるのかもしれません。
畑に害虫が出てきたからといって、その害虫を根こそぎ殺してしまったら、生態系のバランスが崩れて、どこかでまた問題が生じます。
問題を起こす団体が出てきたからといって、その団体を皆殺しにしてしまえば、やはり、それによって色々な問題が生じるはずです。

世界はフラクタル構造をしているので、上手な解決方法を見つけたら、それを人体に適用してみるとより健康になれるし、人体で上手くいったことは人間関係や社会で応用すれば上手くいくのかもしれないな、と思いました。
少なくても排除や拒絶は、ベストの解決方法ではないのではないかと感じています。

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